こんばんは。今年も最後の一日となりました。やっと我れに帰り、ブログの原稿に向かっています。8月からこの様に原稿を書くようになって、この二時間が本当に有意義な時間となっているんだな、と思われます。反省多き一年ですが無事今年もここまでやってくることが出来ました。自他ともに、感謝申しあげます。やはりこの時期になると、自然と感謝の心が湧いてきます。良いも悪いも含めて、この一年を司ってくださった神々さまに感謝申し上げます。「良い悪い」を言っているのは私どもの判断する心であって、現象自体に善悪はないと思っています。今年の色々な出来事も振り返れば最後に感謝のところに落ち着いて来ます。
色んな事があって、たとえマイナスなことだらけでも、やはりこの一年を生きたということは誰もが尊い経験だと思います。作家の五木寛之さんが何年か前にラジオで、リスナーに相談をされていた話です。その若者の相談に「今の時代、ただ生きていくというだけで大変なことです。それ以上の事をされなくても、生きているというだけで十分意味があります。大丈夫です。」そんなお話だったと思います。深く聞きいっていました。
時代がいつの間にか人々の営みや、暮らしを切羽詰まったようにおとしめているように感じているのですが。そんな思いで何年も過ぎて行きましたが、とうとうやって来るものがやって来たと思います。いのちを真剣に見つめ、考えて次の来るべき時代を共に創造していきたいと思っています。本年も有難うございました。皆様のよきお年をお迎えくださる様、心からお祈り申し上げます。


民芸運動の代表的作家、河合寛次郎先生の詩です。
こんばんは。昨夜から続いていました窯焚きも無事午後5時に終了いたしました。これで今年の最後の窯で、明日は工房も御休みにして、29日月曜日に生徒さん達が午後から集まって、窯を出す予定です。年始に仕事が入って来たの、今日の内に片付け出来るところはサッサッと、体裁よくあまり深追いしない程度の片付けで今年は終わりにします。と言っても工房はかなり広いので、やり出したら恐ろしく手間が入ってしまいます。



この様な小物でも、仁清陶器はどの様に作ったのだろうかと深く考えさせられる作品が多く有ります。一つの作品に仁清は一ひねりも二ひねりもしてくるので、単純にかかって行くと大きな落とし穴があります。これは古清水も言えることですし、乾山にも言えることです。他の窯業地にはあまり見られない独特の仕掛けが色々と施されています。やはり都の持つニュアンスの複雑さ、掛け言葉などで飛躍させるイメージなど、一筋縄ではない、手の込んだ仕掛けが散りばめられています。



