用の美とお念仏

用の美とお念仏

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こんばんは。いよいよ明日から大寒らしい厳しい天候になって来そうです。これからの雪はこちらでも積もる可能性があります。明日は再び大阪市内に出かけなければならないので、帰りは雪道にならないか用心しています。天気予報ではかなり冷え込むようで、大阪の予報は珍しく雪マークが付いていました。

今日のブログのネタをどうしようかと思っていました。すたっふMさんが云うには、私フシハラの独立した時の様子を書いてください、とのこと。ふううん、まあ色々面白いお話はありますが。昨日の「用と美」について、もう少し書いてみたいと思います。

明日は工芸店「ようび」に出かけます。先日店主である真木啓子さんからお電話を頂き、今年はまだ一度もお会いしていないので、丁度作品も焼き上がることですので納品を兼ねて伺います、ということになりなした。では、お食事でもとおっしゃってくださったので、はいはい、と喜んで出かけます。この「ようび」の名前は、懐石料理店「辻留」の先代辻嘉一さんが命名されたと聞きます。もちろんこの名は「用と美」から出てきたものでしょう。

昭和初期の工芸運動の一つに民芸運動がありました。昨日紹介いたしました濱田庄司先生なんかは人間国宝にもなられ皆様もよくご存じだと思いますが、柳宗悦という先生の思想が民芸運動の根本とされています。柳先生の著書は数多くありますが、面白いところでは「南無阿弥陀仏」というのがあります。「他力」を説かれたなかなか面白い本です。また、「美の法門」なんかもこの運動の根本的な著書になるのでしょうか。

「用」という文字には働きという意味が含まれています。一般に思われている「人が働く」と云うような意味ではなく、少しスケールが違っていて、宇宙大の働きを意味するようです。仏教のいう仏の働き、また宇宙の創造、そんな意味合いの言葉だと思います。単に使い勝手のいい、という意味で使われているのではありません。用は他力を意味します。ここでいう他力とは宇宙の働きのことで、自力他力を超えた世界を現しています。その働きは本来われわれの生活そのものに現れ出ているという他力生活を表現したものを、工芸と言い、また民芸と呼ぶようにしたのでしょう。この運動には人間復古の意味合いも大きかったように思います。芸術を小さな特殊な枠に嵌めて特別な存在にした世界から、民衆の暮らしに脈々と流れてきた「暮らしに根付いた用の美」を提唱する運動だったように感じています。

単に啓蒙運動に終わらず、そこには素晴らしい作家が綺羅星のようにいて、その哲学を具体化し、そのことを生き抜いた作品が多く生まれたことは、また日本美術史上大きな成果だったと思っています。

この運動がなければ私はここで陶芸をしていなかったと思います。器に自分のすべての思想、哲学を表現し、尚且つ人々の暮らしの中で、使われて行く。どの国の芸術をみても、この様な芸術は存在していないと思っています。そのことを支えてきたわれわれの先人の骨太いくらしぶりを、今一度考え直してみたいと思って居ります。

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