十草紋飯碗の削り

十草紋飯碗の削り

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こんばんは。後二日で一月も終わります。今年の姿も見えてきました。この様にしていこうという計画も大体出揃ってきました。カレンダーにスケジュールを入れていくと、一年もすぐに埋まってしまいました。二月は「逃げる」とも言いますが、逃がさないで何とか内容をいれ込んで行きたいと思っています。

工房は十草紋飯碗の削りが終わりました。明日からは桜紋の組み出しや煎茶碗の見本を挽いていきます。一月が二日残っているので指一本が掛かっている状態です。絵描きさんのところで仕事が詰まってくると辛くなってきますね。今年はどこかで肩の力が抜けるような仕事を作って上げないと、身体が心配になっています。

今日は「ますらおぶり」、「たおやめぶり」のお話をしたいと思いました。どういう訳でもないのですが、ふと朝そんな気がしました。うまくいくか分かりませんが、さあどうでしょうか。日本文化にはこの勢力が交互に現れると云われています。男性的、女性的と別れるのでしょうか、また、父性的、母性的と云いった方がいいのでしょうか。歌の世界では万葉集はますらおぶり、古今集はたおやめぶり、といわれています。縄文的なるもの、弥生的なるものと表現する哲学者や建築家がいますが。岡本太郎さんもよく「縄文的なる世界」と云われていました。白井晃一さん(建築家)の著書にも日本の根底にある縄文的なるものという表現があった様に記憶しています。私が初めてこの言葉に出合ったのは、岡清先生の著書でした。日本文化の源流を考える興味ある本でした。卑近な事ですが私の作品はどこを突いても縄文的なるものや、ますらお的なるものは出てきません。若い頃は無いものに憧れるのでしょうか。しきりに先生方の本を読みました。自分の中のたおやめ的な情緒世界があまり芸術にそぐわないと思いこんでいました。時代がその様な日本原始回帰の様なものを欲していたのだと思います。戦後の日本はどこか彷徨っていたように思います。その彷徨も今がピークに達してきた様ですが。民族の精神がお落ち着くところを探したいのでしょうか。縄文的と云えば太古の血が騒ぐのでしょうか。どうも我々日本人の精神構造に縄文的なるもの、弥生的なるものという二重構造が潜んでいるようです。

一つの時代が行き詰まりを感じ出すと、日本はこの二重構造の故に先と違う精神がとってかわる様に出てきます。しかし21世紀この構造に大きな変化が有ったように感じています。この「ますらお」「たおやめ」を超えた第三の精神世界が現れるように思うのですが。

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