こんばんは。気が付けば四月も半ば、桜もすっかり葉桜になっていました。御近所さんから筍のお裾分けが届きます。今日は朝からしとしと春雨になって静かな一日を工房で過ごしています。と云いたいのですが、、、、。
まとまった時間を作るのがこの頃難しくなって来ました。こま切れになった時間を継ぎ合わせながら、同じテンションで物を作っていくには、それはそれでなかなか修行がいるものなのですよ。独立してそのことが身に付かなければ、短時間に集中して仕事が出来ないと思います。山に籠って陶芸三昧、いいなぁ。私もやってみたいですね。(笑)

乾山陶器の見本をあれこれ作っています。今日はすたっふMさんが来てそれぞれの素地に白化粧を施すための下絵を描いています。先週この仕事のために近くの図書館に行って、乾山の全ての資料を借りて来ました。中にはかなり興味のある資料もありました。翌日大阪市の図書館に問い合わせると同じ作者でかなり量のある資料が見つかりました。早速すたっふMさんが借り出しに行きました。 三冊組になっていて、限定本なのですがある古本屋のネットでも売りに出ていたそうです。中身がよかったらかってもいいな、と思っているのですが。

また、「緒方光琳二代目 乾山」細野耕三著を読んでいます。色々な角度から乾山を見ているのですが、魅力ある苦労人です。詳細は次回に書いてみたいと思うのですが、時代を通じてファンを引き付けてやまない数々の食器は、彼の人となりともいえる繊細な心使いによるものだと痛感しています。

私が食器に固守するのも、乾山の食器に対する芸術性の高さによるものだと思うのです。京土産乾山焼は今のブランド物になっていたのですが、食器の量産といえども物によってはかなり高い精神性を含んでいたと思うのです。はたして食器に精神を表現出来るのか?近代の陶芸家は作品と普段作る食器を分けて考えていました。そのような分離のない心と一つになった食器を普段の仕事を通して作りたいと願っているのです。

乾山の食器

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